かつて日本の地方行政区分として,下総国(しもうさのくに)があった. 現在の千葉県北部から埼玉県の東部,東京都の隅田川の東岸,茨城県南西部にまたがる広大な地域だった. その下総国の千葉郡の西側一帯を幕張(馬加)と言っていた. 幕張の名前の由来は,馬加(まくわり)氏が治めていたからという説と,ここに馬宿があって「馬が加わる」がなまって「まくわり」になったなどの説がある.
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浦安-市川(行徳)-船橋-習志野-幕張にかけては,昔から遠浅の良質な海だった. 三番瀬江戸川海老川などの大きな河川から淡水が流れ込んでいるため,特に魚介類は豊かだった. 幕張の遠浅の海も,三番瀬ほどではなかったが,春は潮干狩り,夏の海水浴,冬はノリ(海苔)と,豊かな自然に恵まれていた.
↓ピンクの線は,戦後直後の海岸線.
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その幕張の海は,どうして埋めたてられることになったのだろうか.
幕張の海が埋め立てられることになったのは,食料増産のためだった. つまり,広大な開拓農地として使おうとしていたのだ. 戦後間もない1945年(昭和20年)のことで,明日食べる食事にも途方にくれる毎日だった. そのため,緊急で食料増産が必要だったのだ. しかし,日本の経済は高度成長期をむかえ,東京湾に残された数少ない臨海部の埋め立て目的は,工業用地宅地に変更される.
↓旧湾岸線を走るように旧国道14号は走っていた.
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千葉県の中でも,船橋市の海の埋め立ては早かった. 船橋市浜町の場所の埋め立ては,1952年(昭和27年)から始まった. そして,船橋ヘルスセンターが1955年(昭和30年)11月にオープン(1977年5月まで営業)した. 船橋市若松の若松若松団地は,1969年(昭和44年)に造成された.
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幕張の埋め立て前の海岸線は,旧国道14号近くあたりにあり,千葉市稲毛区稲毛1丁目稲毛浅間神社の大鳥居は海中にあった.
↓幕張の海.
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1967年に,千葉市の東京湾岸を住宅用途として埋め立てをし,計画人口 24万人の巨大な海浜ニュータウンを造成する計画がスタートした. 1968年(昭和43年)から,千葉県,千葉市,住宅都市整備公団(現,都市再生機構),千葉県住宅供給公社などにより,海の埋め立てが開始され,1973年(昭和48年)から高洲地区や真砂地区の入居が始まった.
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現在の幕張メッセの場所の埋め立ては,比較的遅くスタートしたた. そのため,1973年(昭和48年)ごろまで,潮干狩り海水浴ができた. 春の潮干狩りでは,アサリ,ハマグリ,アカガイなどが多くとれた. しかし,この区域も1974年(昭和49年)ごろから埋め立てが始まる.
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だが,宅地造成のための埋め立てはスタートしたものの,首都圏の住宅事情は落ちつきはじめていた. そのような流れの中,千葉県は住宅中心の土地利用計画を大幅に見直しをする. 千葉県は,1975年に幕張新都心(A地区)基本計画発表した. 翌1976年には,幕張新都心に教育文化施設を集合させる,学園の街構想が出される. 1981年(昭和56年)より,千葉県立衛生短期大学,放送大学,神田外語大学など大学3校が開校,公立(幕張三高校など)私立高校(渋幕など)6校も開校,徐々に幕張文教地区が形成されていく.
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しかし,文教地区構想が,順調に進んだわけではない. 特に,早稲田大学人間科学部の誘致の失敗は,計画を大きく狂わせた. 早稲田大学の誘致は,内々定まで取れていたといわれているが,埼玉県所沢市三ケ島2丁目の所沢キャンパスと,西東京市東伏見2丁目の東伏見キャンパスに取られてしまったのだ(1981年). 東伏見キャンパス(スポーツ施設中心)は西部新宿線東伏見駅から徒歩1分であるものの,所沢キャンパスは西武線小手指駅から西武バスで15分もかかる場所で,交通の便が良いといえる場所ではない.
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どう見ても,幕張新都心の方が有利に思える. 敗因は,駅から徒歩15分から20分ほどの場所だったことと,提示価格がかなり高かったこと. それよりも,西武鉄道からの横やりによって敗因したといわれている. 西武鉄道早稲田大学の関係は深い. 西武鉄道の前会長である堤義明早稲田大学の出身で,先代の堤康次郎早稲田大学の出身だ. 堤義明は,一時期早稲田大学の評議員も務めていたことがある. これらのキャンパス以外にも,西武鉄道沿線には早稲田大学のキャンパスや学生寮などの施設が多い. 大学の都心からの移転は,西武鉄道にとっても有益だ. 激混みの上り通勤電車の,下り電車を有効に活用できるからだ. 土地もタダ同然で提供しても元が取れる.
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また,青山学院大学の誘致にも失敗し,1982年(昭和57年)に厚木市に土地を購入してしまった. そのような大学の誘致活動を進めて中,埋め立てられたばかりの砂漠のような土地に,真っ先に立ってられたのが,通称幕張三高校と呼ばれた3つの新設高校だった. 学園の街構想以前から計画された高校で,現在の幕張総合高校(幕総)の前身の高校である. 幕張三高校とは,千葉県立幕張北高校(幕張北)と千葉県立幕張西高校(幕張西),千葉県立幕張東高校(幕張東)の3校で,その集合体名として幕張三高校と呼ばれていた. 北校-西校-東校といっても,隣り合わせに作られた高校だったため,高校団地とも呼ばれていた. 大きな高校を1つ作るよりも,普通の高校を3つ作った方が,国からの補助金を得られやすいといった都合もあったのかもしれない.
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たしかに,千葉県は東京都などのベットタウンとして急激に人口が増え続け,高校も不足していた. しかし,人口増加のカーブはおちつきはじめていて,同時3校の開校は必要ないのではないかという声も建設前からあった. そもそも,幕張地域一体を住宅として計画していたものを,途中で事業目的に変更したにもかかわらず,学校建設計画はそのまま進んだ. そして,1980年(昭和55年)4月17日(木),計画通り幕張三校幕張文教地区に同時開校した. 幕張北高校274名,幕張西高校280名,幕張東高校282名,幕張三校の第1期生合計836名でのスタートだった. 5000万円献金スキャンダルで辞任に追い込まれた,川上紀一千葉県知事の時代だった.
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ところが,開校してわずか2年目の時に,この幕張三校を統合するという案が持ち上がる. 3つの高校を作るのに100億円近い建設費をかけたにもかかわらず,校舎も新たに作るというのだ. だれもが「なぜ」と声を上げた. 他の船橋高校薬円台高校など比較しても,まだまだ新しい幕張三校の校舎を使わず,100億円以上の莫大な建設費をかけて,また新しい学校を建設するのだ. そもそも,幕張に幕張三校はいらなかったんじゃないかという声もあったが,この統合計画が変わることはなかった.
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そして,幕張北高校,幕張西高校,幕張東高校幕張三校が統合され,7階建て吹き抜け構造の近代的な幕張総合高校が建設され,1996年4月に開校した. 幕張三校は,まだ新しい校舎とともにわずか16年で消滅したことになる. 幕張総合には学区制はなく,千葉県内のどこからでも志願できる. 総合選択制単位制が採用され,埼玉県の埼玉県立伊奈学園総合高校や,国立筑波大学附属坂戸高校をモデルにして作られたと言われている.
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その後,幕張三校が統合されて廃校になった校舎は,駅から一番近い幕張北高校はすぐに解体され,現在はアジア経済研究所になっている. 幕張西高校の施設も,すでに解体を完了している.
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最後まで残っていた幕張東高校も,千葉市稲毛区小仲台の千葉市立千葉高校(通称いちちば)の立て替えのための仮校舎として一時利用していたが,その役目を終え解体作業に入っている. 2008年度にはエネルギー棟が解体され,2009年度は普通特別教室棟(4階建て),管理特別教室棟(4階建て),屋内運動場(3階建て),芸術棟(3階建て),体育倉庫兼部室(2階建て)などが解体される.
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跡地は,早稲田大学の誘致を予定していた土地とあわせて,4000戸の高層住宅(推定人口1万2000人)や一戸建て住宅,駅への通路と小中学校になる予定だ.
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